企業沿革

私の歩いた道 筒井光康

ベルモードは、1927年(昭和2年)に、
パリ、NYでの帽子修行から帰朝した筒井光康が、
東京麹町に店舗を構えました。その略歴を、
筒井光康著『私のファッション人生』より抜粋して、
「私の歩いた道」としてご紹介いたします。
明治37年 私が生まれたのは、明治三十七年、日露戦争がはじまった年である。家は「信濃屋」という百年ほど続いた染織業だった。創業以来、父は四代目に当たる。

小学校時代の恩師・吉川廉逸先生の言葉「これからの日本で国を富ませ、強い国民になるには、海外へ発展することだ。目を世界に向け、貿易を拡げることだ」この一言が、私の胸を打った 。
大正8年 まだ見ぬ外国への夢が涯しなく拡がるが、それには、まず東京か横浜に出ることだ。大正八年二月十四日、とうとう家出をし、元町の「オリエンタル社」の中島文之助という人の店を訪ねて、婦人帽子製造販売の見習いとして入社。六年間お世話になった。
大正14年 いよいよ夢のパリーへ渡ることになるのだが、大正十四年十一月二十三日、私は横浜を出発し、三十五日間かけてマルセーユ港に到着した。すぐに、パリーのアカデミー・モード・パリに入学し、女性の帽子の材料・デザイン・製造技術などに取り組んだ。

ある日、日本人クラブで会合で、ヒゲの紳士に声を掛けられひとつの小さな封筒を渡された。前のフランス大統領レイモン・ポアンカレー氏だった。そこには「"LES BELLES MODES"ベル・モード」とだけ書かれてあった。後年、私はためらうことなく「ベル・モード」を社名にしたことは、いうまでもない。
大正15年 パリーでは、エコールド・ピジェでも勉強し、もう日本へ帰っても、誰にも負けはしないという自信のようなものがついた。大正十五年十一月九日近代アメリカも見て帰ろうとアメリカ経由の船に乗った。

ニューヨークの「カントリークラブ・ハットカンパニー」の工場で働くことになり、ある程度の資金もできると、フィラデルフィア、ワシントン、シカゴ、サンフランシスコなどの都市を見学。婦人帽子の製造から販売のシステムを見て回り、新式の製帽機械と材料を購入。サンフランシスコ港から日本向けの客船「大洋丸」に乗り、横浜港に到着は、昭和二年十月三十一日のこと。
昭和2年 私が日本へ帰ってきた時は不景気の真っ最中だった。そんな時に私は開業したのである。一年近くは苦しいことの連続だったが三年目には、店の前に自動車や馬車の列ができるほどになった。
昭和10年 昭和十年ごろから宮内省の御用を承るようになったが。皇后陛下のお身近に接して、お帽子を作らせていただいて、それは昭和三十五年まで続いた。秩父宮、高松宮、三笠宮の各宮家の御用もお受けしたが、忘れられないのは三十四年四月、皇太子妃となられた美智子妃殿下がご婚儀の際のお帽子は全部ウェディングハットなど私が担当ささせていただいたことである。この身の栄誉、これに過ぎるものはないと思った。

限られた特権階級だけを対象とした商売から、一人でも多くの大衆化へと路線を拡げたのは、昭和十一年ごろからである。日本国内でも洋装が普及し、婦人がかぶる帽子も特定のものではなくなっていた。それまでの「ベル・モード帽子店」を「株式会社ベル・モード」に改組し、製造工場を持って大量生産し、主としてデパートへも卸すことにした。

迎賓館とか大きなホテルでのパーティーに出席される方々のご注文も多いが、大衆化にしたがって、デパートなどへの納品も多い。日本航空のスチュワーデスがかぶる帽子は、同社発足からずっとベル・モードで納品している。世界の中の日本となった今日、欧米の流行もさることながら、日本独自の美しいものも創造するよう努力している。

(筒井光康著『私のファッション人生』より抜粋)

ベル・モードホールディングス株式会社は『ベル・モード』ブランドで、自社製品企画開発、帽子の世界的ブランド『ヘレンカミンスキー』の正規代理店として信頼できる商品を皆様にお届けすることに全力を尽くします。